道徳科 教材活用の基本的な考え

「いかに在るべきか」や「どうすべきだったか」という内省と、「いかに在りたいか」という未来思考は、理想と現実を繋ぐために大切にしたい。これらは、「いかにすれば可能か」を多様に考えることによって、現実を切り拓くための道標となるから......。

 

自分自身はこれまで、道徳科の授業をsystematicにとはあまり考えてこなかった。また、contextのない道徳科の大人相手の模擬授業にもあまり意味を感じなかった。それは、道徳科の授業実践を底の底から語るのであれば、学級経営や教師が如何にして児童との繋がりを構築したかという部分を抜きにすることは難しいと考えていたからだ。だから、附属小時代に周囲からよく言われた「この授業は木原の学級だから出来るんだ‼」っていうのは、「確かになぁ」と思う部分もあった。

 

ただ、道徳科の授業で用いる教材に対する教師の固定化された見方は、改めることが必要だと思う。
伝記教材であれ生活教材であれ、子どもたちの現実とは時間も空間も離れた世界の話である。そんな、自分とは離れた世界を通して、ねらいとする内容項目の理想的な側面に迫りつつ、それを自分の時間と空間に落とす方法を探るのが道徳科の学びの作法とでもいうべきものだろう。そして、そのための素材となるのが道徳科の教材である。だから道徳科の教材は、学びの主体である子どもたちに常に開かれている。

 

子どもたちの思考を通して、教材を時間的にも空間的にも超えるのが道徳科の学びである。だからこそ、道徳科の教材に対して、教師や教材作成者の思いのみに共感的に追随させ、それ以外の思考の可能性を許さないような活用方法を強いることから、私たちはそろそろ脱却しなければならない。