道徳科の学習と対話についてまとめてみた

 久しぶりのblog更新です。あわただしさに追われながらも、自分の時間を見つけていかなければと考える毎日です。

 

 今回は、道徳科の学習と「対話」といういささかシンプルに過ぎるように感じられる内容です。ただ、シンプルだからこそ、様々な授業技術を支える根幹にかかわる重要な部分だと考えます。

 道徳科の学習を考えたとき、学習活動のなかで「対話」を楽しもうとする学びの姿を求めていきたいと考える先生方は多いのではないでしょうか。もちろん私もその一人なのですが、「そもそも道徳科における『対話』って何? 何に対してどういう関係性を持つことなの?」というぼんやりとした問題意識がいつも頭の片隅にあります。そこで、言葉を自分なりに整理しながら、道徳科における「対話」について定義めいたものを設定し、実践につなげようという試行錯誤の記録を紹介したいと思います。

 

 まず私は、(おそらく多くの先生方にも共感していただけると思うのですが)、単に自分が知っていることを言い合っている状況を、道徳科における「対話」とはしたくないという思いがあります。 単なる情報や知識の交換は、言語によるやり取りという意味での「会話」でしかないと考えます。


 そこで、道徳科における「対話」を、“情報や知識を受け渡ししたときに、学習者のある種の変容をともなうような(それが期待できるような)活動”と定義したいと考えます。この場合の変容とは、「体験を通して新たに芽生えた感情」や「友達と話し合ってよりよい解決方法を見いだす活動」、「今までの自分をふり返り、自分がどうありたいかを自問すること」など多岐にわたるでしょう。また、学習者にある種の変容を伴うことを期待したいのですから、未知なるものと出会いや、自分の知識がその対象の表層でしかないということを認識することを、道徳科の学習過程で重視し、その更新をきちんと位置づけられる必要があると考えます。


 では、具体的に、道徳科における「対話」にはどのようなものがあるのでしょう。道徳科の対話といえば、真っ先に思い浮かぶのが「自己内対話」でしょう。言葉の定義も比較的明確で、「自分に深く問いかけ、考えを深めていく内省への働きかけ」という解釈が一般的だと思います。その他に、「教材との対話」「他者との対話」といった言葉も、雑誌や書籍等で目にすることがあります。これらの言葉を一括して、道徳科における「対話」として整理し役割を明確にすると、次のようになるでしょう。

 

①「教材との対話」
自己の未知なるものとかかわって、気づく、変わる。価値あるものとの出会い。
②「他者との対話」
応答的な関係性のなかで、自分の考えと他者の考えとを交流し、集団として高まる。相手意識のある、他者の変容を促すような話し合い活動。
③「自己内対話」
自分の生き方に重ねながら自問自答し、言語化することで考えを明確にする。課題に対して自力で解決に取り組む活動。

 

 そして、道徳科において、「対話」を活動の中心にして構成することで、児童が以下のような力の獲得を期待できると考えます。

・    対象に関する表層的な知識から、より深い本質へと追究する学び方の獲得。
・    自己認知の深まりによる自尊心の向上。
・    市民的資質の育成による望ましい社会性の獲得。

 

 下の図は、道徳の時間のなかで対話がどのように働くことを期待しているかを示したものです。

 

 「考え、議論する道徳」が標榜されている以上、「対話」は学習を構想するうえで欠くことのできない要素です。しかし、教材や発問を前に「沈思黙考」する子どもの姿もまた、ある種の対話であることを、授業を構想する教師としては常に心に留めておきたいと考えます。活動としてのアクティブさは、思考がアクティブになることに裏付けられたものであってほしいという願いを込めて……。