「わたしは ひろがる」の授業を子どもたちに委ねてみた

このblogをご覧の方々のほとんどは、教育関係の仕事をなさっているだろうと思います。道徳科に移行して4年となりますが、みなさんは毎週1時間の授業を楽しみに取り組んでいらっしゃるでしょうか?

 

私はと言えば、なかなかに苦しんでいるというのが正直なところです。年間指導計画を組み、それに沿って授業を行うことは、教科化以前と何も変わらないわけですが、基本的に採択された教科書の教材を用いますので、「この内容項目は、この教材よりも他社の教材の方が......」と思っても、それを差し替えて活用することは御法度です。差し替え可能なのは文科省の教材か地教委作成の郷土資料くらいのものですが、教科書教材よりも良いと思えるものは、ほんの一部に過ぎないのが実際です。教科書の教師用指導書を読んでも、いや読むほどに「これじゃ、道徳科の学習としての面白味に欠ける!」という思いがつのります。それでも、なんとかして授業を機能させることができるフレームをつくろうと足掻く日々ですので、なかなか「楽しい」と感じることができないでいます。

 

「わたしは ひろがる」も、そういった教材のひとつでした。作品としては、確かによい詩なのですが、これを道徳科の教材として学習に活用しようとすると、どうにもピンとこないのです。ステキな作品だからこそ、道徳科の教材として、あれこれと発問を重ねて授業をすること自体が、なんとも野暮に思えるのです。

 

とはいえ、この教材用いて授業にかけなけれぼならないと考えたとき、「いっそ、授業のほとんどを子どもたちに委ねてみようか......」という思いに至りました。

 

教材をプレゼンにまとめ、最初の問いだけを「この詩の『わたしは ひろがる』とは、どういうことを言うのだろう」と決め、子どもたちに委ねました。「挙手して発言」のスタイルではなく、友達や教師と考えを自由に立ち歩いて交流することに時間を使いました。

 

板書も、これまでの学習の経験をもとに、基本的に子どもたちに任せました。できるだけ長文にならないように書くことをアドバイスし、私は子どもたちの考えのポイントだけを加筆しました。

 

子どもたちに議論と板書を委ねることで、本時の学習のねらいに迫ることが可能なのかという多少の懸念はありましたが、それは杞憂に終わりました。むしろ、教師が下手に問い返しをした場合よりも、学習としての機能度は高かったとすら思えました。

 

子どもたちの考えと板書から、最後に「あなたが、今よりももっとひろがるために、大切にしたいことはどんなことですか?」と問いました。本時の学習をふまえた自身の納得解をワークシートに書き、交流したり板書に書き留めたりして、学習を終えました。
f:id:moralsmaster:20220608221627j:image

 

道徳科の教科書について、SNS上では「教材がよろしくない」、「使いにくい」、「以前の副読本時代の方がよかった」などの否定的なコメントを目にすることは少なくありません。確かにそういった側面があることも否定はしません。ただ、その「やりづらさ」は、教師自身が旧態依然とした授業スタイルとイメージにとらわれていることに起因している場合もあります。時には思い切ったやり方で授業してみることで、教師にも子どもたちにも、新たな気付きが生まれることもあるでしょう。