絵本と道徳科の教科書教材について

道徳科の教材で絵本もあるというものがよくあります。と言いますか、道徳科で有名教材と呼ばれるようなものは、結構絵本が原典のものが多いのです。『泣いた赤おに』などですね。

 

ここからは、木原の拘りです。もちろん異論はあるでしょうが...


もし、私が道徳科の学習で絵本そのものを使うとしたら、普段の学習で考えるような「現実の世界に照らして...」といった指導過程にはしません。絵本の世界にドップリと浸り、心情の共感的な理解を深めていく授業展開にします。1冊の絵本に込められた作者の思いに共感し、「僭越ながら」の思いで道徳科の教材として活用させてもらうわけです。主客で言うなら、絵本作品が主なのです。くどくどと世界観をねじ曲げるような問いなど野暮の極みですし、絵本という作品への敬意を欠いた態度でしかないと考えます。

 

一方で、道徳科の教材として教科書に取り上げられている場合は別です。道徳科の教材となった段階で、道徳科の教科書に編集し直した教材作成者の思いを汲む必要などないと考えます。教科書教材は、道徳科の目的を達成するために効果的に活用されるべきものとして掲載されており、絵本作品から表現などを変えたり、短くしたりされています。道徳科の教材としてあることが最優先されていますので、そこに作品性は求めるべくもありません。ましてや、教科書教材作成者の「教材に込めた思い」など忖度する必要はないです。主客で言えば、構想される学習こそが主なのです。これは、教科書教材作成者の端くれとしての、私の矜持でもあります。ですから、絵本がもととはいえ、教科書教材では「あえて現実の世界に照らして考える」展開とします。それが、教材を最も活かす可能性があると判断するからです。

 

絵本と教科書教材
同じ作品であっても何をどう用いるかによって、自ずから学習の構想も指導の方法も異なってくるということに心を致す教師の感性は大切にしたいものです。