自明とされることを問い続ける (自戒を込めて)

問い続けることなしに走り続けることがないように。そしてそんな自らを戒めるために......


教材を作った人間が、教材のなかで「人の生き方」として提示しているものが、本当に「人の生き方」といえるものなのかと自問したことはあるでしょうか?

 

もう10年以上前で道徳の教科化以前の話です。道徳教育の世界において重鎮の一人とされる著名な方が、講演のなかで語った言葉に衝撃を受けた経験があります。

 

「道徳の資料においては、事実がどうとか、科学的にどうとかはどうでもいいのです。資料の登場人物の姿にひとつの道徳的価値が明確に示されていること。そして、その道徳的価値に疑義を挟む余地がないこと。これが道徳の名資料であるかどうかの条件なのです。」

 

今でも、道徳教育界に大きな影響力をもつ方の発言です。なるほど『手品師』であれ『雨のバス停留所』であれ、この言葉に沿った作りになっています。読み物資料と呼ばれる道徳の時間の学習で用いられてきた文章は、概ねこの条件を満たすように作られてきました。いや、道徳科に移行して、教科書教材となった今なお、この条件は教材作成者に対する無意識の縛りとして存在するようにすら思えます。

 

こうした条件のもとに作られた読み物教材と、その登場人物が示す有り様を、本当に「人の生き方」と考えてよいのでしょうか?


疑義を挟むことが許されない道徳的価値は、「人の生き方」の一側面を提示しただけに過ぎないのではないでしょうか?


その一側面をもって語るだけで、「人の生き方」を追究したと本当にいえるのでしょうか?

 

領域としての「道徳の時間」であれば、あるいはそれでよかったのかもしれません。しかし、「特別の」であったとしても「教科」として存立する道徳科です。教科としての道徳を志向するのであれば、情意的側面を殊更に強調し、本来なら基盤として存在するはずの知識や理解を軽んずることには、私は同意できません。それは、「道徳的価値の情緒的理解」であり、「人の生き方」への考えを深めることにはなり得ていないと考えるからです。

 

今、私たちが様々な文脈のなかで「人の生き方」として語っている内容は、本当に「人の生き方」なのでしょうか?