たとえ授業者としてお叱りを受けるとしても……

久しぶりのblogへの投稿です。この間、たくさんの方々にこのblogを見ていただいているようで、恐縮しています。なにぶんにも、有益な情報を提供できているという自覚も自信もないもので……

 

始めに申し上げておきますが、授業者として評価を受けるのであれば、今日の授業はまちがいなくダメな授業に分類されるものです。「こんなステキな授業ができました!」という発信は、それはそれで意味あることなのは間違いありません。しかし、「なぜそんな授業ができたのか」、「それまでにどんな営みがあったのか」といった部分を私たちは知りたいと思いますし、共有することが大切だとも思います。逆に、一般的には評価されないとしても、一定の意図をもって臨んだ授業にも意味を見出だすことができる場合もあると考えます。「何年も教員をしていて、この程度か?」というお叱りを受けることを承知のうえで、今日の授業の意図と記録を残しておきたいと考えました。

 

今日は、「世界へ羽ばたく『航平ノート』」での授業でした。内容項目は「希望と勇気、努力と強い意志」です。
本時のねらいを「内村航平の生き方についての話し合いを通して、夢をもち困難を克服することの大切さについて考えるとともに、夢を抱いて生きることについての自分なりの納得解をもつことで道徳的心情を培う」としました。
授業の構成としては、「内村選手の紹介と演技の動画視聴」→「教材範読」→「感想交流」→「学習テーマと中心発問の設定」→「考えの交流と共有」→「自分の納得解を紡ぐ」としました。教師の立場として、本時の学習テーマは、「努力を続けることの根っこにあるものは?」と想定し、中心発問は「なぜ、内村航平さんは、困難を乗り越えて世界を驚かせる演技ができるような選手になれたのだろう」としていました。

 

もちろん、これまでの学習と同様に授業を組むことは可能でした。しかし、今日の学習ではそうはしませんでした。私の用意した授業のフレームにのって流れていくのではなく、子どもたち自身が教材やそれに付随する知識、諸価値の理解、自己の経験からの類推などから、子どもたち自身で授業のフレームを見つけ出していこうとする、「道徳科の学びの作法」を子どもたちが体験し、習得するための時間としたいと考えたからです。

 

教材の範読までを終え、子どもたちの感想を交流しました。具体的に場面を限定した問いがあるわけではないので、簡単には感想が出てきません。沈黙の時間が続きます。それでも、切り返しや補助発問は一切しませんでした。教材や補助資料と向き合いながら、子どもたちなりの思いや考えが出てくるのを、ただひたすら待ちました。本当に少しずつ、わずか数人ずつですが、率直な思いや疑問が表出されはじめました。そして、ここでの子どもたちの感想から、本時の学習テーマを「夢を実現させるために大切なことは……」、中心発問を「最下位からのスタートだった内村航平さんが、くじけながらもあきらめなかったのはなぜだろう?(彼の生き方を支えていた思いに迫ろう)」としました。

 

「自分たちの感想交流から本時の学習テーマを設定し、本時の学習の中核となる問いを見出すことは、他教科だけでなく、道徳科でも可能なのだ」という学びの作法は、実際の道徳科の学習を通して体得してもらうより外にありません。ここまでにかなりの時間を費やしてしまったため、残りの時間は限られたものになってしまいました。ただ、自分たちの意見から紡いだ中心発問に対する子どもたちの考えは、様々な諸価値の連関を通して、これまでと同様かそれ以上に道徳的価値の理解を深めることになったと考えます。

 

この授業を録画して視聴したならば、時間配分や子どもたちの意見交流の活発さという視点からは、授業者として失格の烙印を押されるでしょう。しかし、道徳科であっても、他の教科と同様に、学びの内実を子どもたちが形づくるという営みをどこかで経験しなければ、道徳科は通り一遍の授業のままで終始してしまうだろうという危惧を覚えます。「ステキな授業」なんて空虚な言葉で、誰かから褒めてもらうために授業をするのではありません。道徳科を教科として成立させるために、情緒のみに流されず、表面的ではなく本質的な学びに変えていく授業の質と構造の転換が、小学校高学年以降には必要になると考えています。そのための「はじめの一歩」が、今日の授業であったと信じています。