道徳科 内容D「主として生命や自然、崇高なものとの関わりに関すること」について考えてみた

 道徳科の内容は、A~Dの4つの視点で分類整理されています。その内容Dは、「主として生命や自然、崇高なものとの関わりに関すること」として、「生命の尊さ」、「自然愛護」、「感動畏敬の念」、そして小学校高学年から中学校では「よりよく生きる喜び」を加えた内容項目で構成されています。自己を生命や自然、美しいもの、気高いもの、崇高なものとの関わりにおいて捉え、人間としての自覚を深めることを意図しています。


 この内容Dに関して、実際の教育現場での指導の難しさを指摘する声を聞くことが多いです。内容そのものが実感的に捉えにくいためか、児童生徒の問題意識を喚起しづらい教材が散見されることも、その要因の一つだと考えられます。そのうえで、ここではその問題をもう一段階掘り下げて、「学習指導要領において、内容Dを3つ(ないしは4つ)の内容項目に分節して示していることが、教育現場における授業実践において妥当だといえるのか。(教材の不自然な構成や自由度を下げる結果となってはいないか)」という視点から考えてみたいと思います。

 

 まず、D19(本来はこのような表記はしないことは承知してはいます)「生命の尊さ」は、「生命あるすべてのもの」を尊重し大切にすることが意図されています。(解説編p.64)ここで留意しなければならないのは、この内容項目が「人間の生命の尊さについて考えることが中心」とされていることです。つまり「生命あるすべてのものをかけがえのないものとして尊重する」その射程は、人間存在としての自己及び他者までなのです。

 

 次に、D20「自然愛護」は、自分たちを取り巻く自然環境や動植物への愛護に関するものとされています。つまり、動植物の生命についてはこの内容項目の範疇とされているのです。ここでは、動植物の生命は「愛護」の対象とされている。「愛護」とは、「かわいがって大切に庇護すること」です。「庇護」とは、「かばい守る、いたわり守ること」であり、そこには、人間が他の動植物の生命を守る存在であるというスタンスが見え、特に「愛護」という言葉からは、人間と動植物との生命とが明確に線引きされ、人間の生命を他の動植物の生命より一段高く位置付けているといえます。その一方で、「偉大なる自然の前に人間の無力さを見せつけられる」ことや、「人間も自然の中で生かされていること」などにも言及されています。

 

 そして、D21「感動、畏敬の念」は、美しいものや崇高なもの、人間の力を超えたものとの関わりに関することとされています。具体的には、文学や絵画・造形、音楽などの芸術作品に加え、大自然の摂理や人間のもつ心の崇高さにまでその射程が及んでいるのです。そして、これらとの関わりを通して感動や尊敬、畏敬の念を深めることにより、人間としての在り方をより深いところから見つめ直すことが意図されています。

 

 さらにD22「よりよく生きる喜び」は、よりよく生きようとする人間のよさを見出し、人間として生きる喜びを感じることに関することとされています。道徳科への移行までは、中学校の学習指導要領のみに規定されていた内容項目です。人間存在の内面的な弱さを認めつつ、自己の良心に従って生きる誇り、他者から受ける愛情、よりよく生きていこうとする強さや気高さなどを理解することで、人間のすばらしさを感得する深い喜びであると示されています。

 

 これらの内容項目を概観すると、それぞれが一定のつながりをもっていることがわかります。そのつながりは、現実の社会における諸問題においては、連関もしくは対立する構造であり、不可分なものとして提起されることで初めて機能すると考えられるものです。
 にもかかわらず、これらの内容項目を単独で考えることを前提とするから、教材も扱いにくいものになりますし、授業も決まりきったようなことを言わせるようなものにしかならないのでしょう。殊、内容Dに関して言えば、(他の内容も同様だと考えてはいるが)一つの内容項目ごとに分節するのではなく、内容Dの内容項目を連関させた教材や授業を構想することが必要ではないかと考えます。

生命ひとつをとっても、D19「生命の尊重」とD20「自然愛護」とで、人間と他の動植物の生命とを機械的に分け、それぞれの内容について単独に学習を展開しようとするから、児童生徒の納得解を醸成することが難しくなるのではないでしょうか。むしろ、「人間の生命と他の動植物の生命と、等しく大切にすると言っても、『尊重』と『愛護』の違いを生んでいるものは何か」や、「その違いは何をもって線引きされたものか」、そして、「人間も他の動植物と同様に、他の生命を自らの生命をつなぐために用いらざるを得ない存在であることの自覚に根ざした生命に関する倫理観」などについて、現代社会に状況や課題に照らして考えることが、内容Dについて考え議論する道徳としての意味ではないかと考えます。