人物を取り上げた自作教材についての考え~『薄命の天才 村山聖』を例に~

 この教材を用いた道徳科の授業は、昨年(6年生)と今年(4年生)の3月に実施しました。この教材は、私が作成・編集した「自作教材」ではありますが、元になった教科書教材があります。ただ、その教材にどうしても納得のいかない部分があったため、自作教材として手掛けることにしました。そこには、私が人物教材で大切にしたいと考えるひとつの大切なポイントがあったからです。

 

 もとになった教科書教材は、確かに村山聖を取り上げてはいるのですが、教材自体の主人公は村山聖ではなく、村山聖の話を聞いた(架空の人物である)ひとりの少年が主人公になっています。

 

 人物教材についての話をするなかで、「人物教材の主人公は、その教材の対象学年の子どもであることが望ましい。だから人物を通して何かを学んだ子どもの姿を教材に描くべきである」といった論と出合うことがあります。「教材の人物が成人であると、児童の役割取得が難しい」というのがその根拠のようです。

 

 私はこの論には賛同しかねます。もし仮に、この「教材の人物が成人であると、児童の役割取得が難しい」という論に妥当性があるのであれば、「手品師」や「ロレンゾの友達」など、これまで数多く用いられてきた教材も同様であり、「人物教材」に限った課題とはいえないでしょう。役割取得は、「成人⇔児童」の対比の問題ではなく、時代背景や環境など他の諸要因が複雑に絡み合って織りなされる問題であり、教材の内包する課題というよりは、授業実践のためにレディネスとして考慮しておくべき道徳的知識の質と量に関する課題であるといえるでしょう。

 

 また、人物教材の主人公を架空の第三者にすることは、子どもたちが授業の中で、主人公に自我関与して考え、議論する際にも問題が出てくると考えます。現実の世界に生きた人物を教材として取り上げるのは、作者の意図によって考え出された抽象的な架空の物語ではなく、具体性をもった人物の生き方に学ぶためです。もしも主人公が架空の第三者と設定された教材であれば、学習者は一義的にはその主人公に自我関与を図り、取り上げられた人物への自我関与は副次的なものとなります。そして、主人公として設定された架空の第三者の在り様を描くのは教材作成者であることを考えると、教材作成者が恣意的に方向づけた道徳的価値へ、主人公の姿を通して誘引するものとなることが危惧されます。

 

 このような理由から、私は架空の第三者を主人公とした教科書教材ではなく、村山聖を主人公にした人物教材として構成しなおしました。中心となる内容項目は、高学年は「よりよく生きる喜び」、中学年では「生命の尊重」を想定しています。

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この授業の概要についてはまた後日とする予定です。