道徳科における心情の位置付け

昭和33年の道徳の時間の特設以降、特に生活指導主義と価値主義の対立を経て、道徳の時間の学習は資料の主人公への共感的理解を中心とした授業過程が広められ、定着していった。
その大きな要因のひとつとして、瀬戸真の講演内容を新潟県立教育センターがまとめた「価値の主体的な自覚を目指す指導過程」が、道徳授業の雛形として広められていったことがあげられる。この展開例の多くが、感動教材を利用し、道徳的心情からねらいに迫るというものであった。これが「道徳授業=心情追求」という方向付けに大きな影響を与えたのは間違いないだろう。
また、道徳の時間と特別活動との住み分けが、「道徳は心情のみ」という印象を強くさせた部分もあるだろう。

アダム・スミス等によれば、よい行為が快い感じを与え、よくない行為が不快な感じを与えるというときのこの感情を「道徳的感情」といい、道徳的判断の原理であると言われる。他者との関係性のなかで発現するこの道徳的感情は、他者に対する客観的視座からの共感であり、学習指導要領に示されている道徳的心情と同義であろう。あくまで、道徳的判断のための基盤であり、客観的であるがゆえに、自らの道徳的行為の動機付けとして見た場合には、弱いと言わざるを得ない。

一方で、心情は、他者との関係性における道徳的感情だけではなく、ベクトルが自分自身に向くこともある。ヒュームの「情念(自負と自卑)」がこれにあたる。これは、主観的な感情であるから、行為動機としては道徳的感情よりも強い。しかし、状況判断を誤れば、情念が必ずしも善になるとは限らないという危うさがある。

道徳的感情も情念も、ともに道徳的行為のための動機付けとして一定の可能性はあるだろう。しかし、いくら道徳的感情や情念を追求し、自我関与して類推してみても、具体的な判断や行為へのビジョンがもてなければ、児童生徒自身の道徳的実践意欲と態度は育たない。道徳的感情は「惻隠の情」に留まり、情念は「肥大化した自我」を生むだけである。
これを克服するためには、共感ベースで心情追求したうえで、それを基盤とした現実的で具体的な判断と行為にまで考えを及ぼすことが必要なのである。具体的で多様な行為可能性に開かれる指導過程があって初めて、心情の共感的な理解にも意味を見出だすことができる。

心情の共感的な理解だけで通すことができるのは、範例的な教材活用をすることの多い小学校低学年までが限界だろう。