道徳科の今とこれから

道徳科以前の道徳の時間の学習では、学習で主に用いる「資料を」か「資料で」かの如何に関わらず、その資料が内包する道徳的価値についての自覚を深めることが求められた。そのため、歴史的な事実や科学的な真理は重視されず、道徳的価値の自覚を深めることに都合のよいものが「よい資料」とされた。江戸しぐさ水からの伝言は論外だが、他の「有名資料」と呼ばれるものについても、この「道徳的価値の自覚を深める」ことを重視した構成になっている。そして、この「資料の構成」にもっとも適していたのが、「基本過程」と呼ばれた心情追求型の授業展開である。資料に登場する主人公の気持ちを問い続ける基本過程は、道徳的価値を深めることに特化した資料と最も相性のよい授業展開であった。当然、授業のねらいは、「道徳的価値についての自覚を深めること」と設定される。道徳の時間の学習で「ねらいに迫る」ことは、「道徳的価値に迫る」ことと同義であり、それが道徳的価値についての自覚を深めるために必要な条件とされてきた。

私たち現場の人間は、如何に高邁な理想として提起された論であっても、それが敷衍され実践にかけられるなかで、本来の趣旨から逸脱していくという現実に自覚的であるべきである。
道徳においても同様のことが起きた。道徳の時間の学習では、気持ちを問うことのみが重視され、判断や実践態度に関する問いは、基本過程からの逸脱とされ、指導の対象となった。道徳の時間の学習は、小学1年生から中学3年生まで、全く同じ指導過程が適用され、「小学校高学年から中学校にかけての授業の形骸化」と言われる状況を招いた。

基本過程は、確かに共感的に主人公の心情をとらえることを前提とすることの多い小学校低学年の道徳の時間の学習においては、効果的な授業展開である。しかし、全ての学年の学習にこれを適用するのは本来的に無理がある。その無理を通すために、現場では、ねらいに迫るための落とし処を教師が設定し、そこに誘引するための発問を構成することに腐心した。授業参観者や子どもたちに、それと悟られないようにレールに乗せることが上手い教師が「道徳の授業名人」と称賛された。

こういった反省の上に立ち、道徳の時間の学習を道徳科に改訂する成立過程において声高に叫ばれたのが「考え、議論する」ことであった。そして今、その揺り戻しが顕著になり、道徳科の学習において、教師が本時のねらいを設定することへの忌避意識として顕在化する傾向すらみられる。私自身、教科化への移行に際し、旧来の在り方からの脱却のために、敢えてその先導的な役割を果たしたという自覚もある。
だからこそ、もう一度原点に立ち戻って考える必要があるのではないだろうか。本当に、子どもたちの思いに寄り添うだけで、教科として学習が成立したと言えるのか。子どもたちとともに学び、その学びを支える教師として、学習のねらいを設定することが、忌避されるべき事柄なのか。道徳がたとえ「特別の」ではあったとしても、「教科」として成立するための要件は何なのかということを。

子どもたちと共に、あるテーマについて考えを深めるために、前提となる社会事象に関する知識と、それに伴う道徳的価値についての知識。それらの知識を基盤として、個別具体的な判断にはどのような可能性があると予想されるか。さらに、それらの個別具体的な判断から最大限共通了解可能な判断は何か。そしてそれは、前提となる知識からみて妥当であるといえるか。
この思考過程を経たうえで見出だされたものを、ねらいとして設定することが、特別とは言え、教科としての道徳科には必要なのではないかと考える。

そのためには、現状の学習指導要領の枠組みを、かなり思いきって変えざるを得ない部分もある。ただ、底の底からこの枠組みを再構築しない限り、次の次に道徳科が存在するとは言いきれないというのが、個人的な思いではある。
「○○しなければ道徳科ではない」「道徳科に○○は相応しくない」という言説を否定はしないが、新たなタブーを作り出している可能性には留意しておきたい。それは、未だに確立されているとは言えない道徳科の教科としての枠組みを、自縄自縛していることに他ならないのだから。