教科書教材で困ったときの大胆なひと工夫 ~高学年の「節度」について考える授業を通して~

道徳科で検定教科書を用いるようになって、小学校では5年目を迎えました。当初感じていた違和感も少なくなったのではないかと感じる一方で、副読本時代と比べて教材選定の自由度が狭まったことに対する諸々の懸念はぬぐえないままのようにも思います。

私自身、ある教科書会社の教科書編集委員をしていますが、勤務する地域では他社の教科書を採択していますので、自分が作成に関わった教科書教材を活用することは、基本的にできません。私が編集に関わった教科書とその教材群もそうだと思いますが、だれもが一切の違和感を抱くことのない完璧な教科書というものは、理想ではあっても、実現できているものはないだろうと考えます。実際に「この内容項目でこの教材はなぁ……」と思っても、簡単に教材の入れ替えをすることがかなわない以上、採択された教科書を用いて授業に臨むことになることがほとんどです。結果、手ごたえを感じづらい授業になってしまうことも珍しいことではありません。

道徳科の授業を推進する立場にある者のひとりとして、その成否は置いても、授業を構想する教師自身が納得のいく形で、週1時間の学習に臨むことを大切にしたいと考えます。そのために、「どうにも使いづらい」と感じた教科書教材を、ちょっと大胆なひと工夫で活用するための考え方について、高学年の内容項目「節度、節制」をテーマにした授業をもとに論じてみたいと思います。

まず、授業の導入で、「節度」について「度をこさない適当なほどあい」という辞書的な意味の説明をしました。そのうえで、「節度を求められるのはどんなときか?」をたずねました。「ふざけからの切り替え」から、「過ぎた言葉」といった部分までが出てきましたが、「正直なところ、ちょっとイメージがしにくい」というのが子どもたちの率直な思いでした。

 

そこで、本時の学習テーマを「節度って何のために……?」として教科書教材の範読をしたうえで、下のような画面を子どもたちに提示しました。

 

子どもたちは「家を訪れたお客さんや友達の印象が悪くなる」という他者との関わりでの視点や「いざ外出というときに自分が困る」といった視点、「外出時に気持ちが荒れるような何かがあったのではないか」といった状況を推察する視点など、多様な考えが出されました。

 

次に、下のような画面を提示して、再び考えを交流しました。

 

きれいにくつが揃えられ、整っている状況を肯定的に捉える一方で、「入口の場所は空けておきたい」や、「たくさんの人が集まる場所なら、くつを入れる棚がほしい」といった意見も出されました。そのうえで、「あまりにきれいに揃いすぎていないか、誰かに強制されたものなら、いみがないのでは?」という疑問が出されました。

 

そこで、最後のシートを提示して問いかけました。

 

子どもたちは、整理、礼儀、思いやり、清潔感などの諸価値のフィルターを通して、「節度は社会のなかで生きる力のひとつ」として必要なのではないかという共通了解にたどりつきました。

 

 

本時の学習における教科書教材は、「具体的な社会の現実を見つめるためのひとつの窓」としてのみ活用しました。共感的にも批判的にも活用しづらい教材の場合、あえて割り切った形での活用とすることもあってよいのではないかと考えます。ただ、教科書教材を窓口にして本時の中心となる内容項目について「考え、議論する」ために、どのような補足資料を提示して学習を機能させるかという授業のフレームをしっかりと構築することが必要です。

 

教科書教材を大胆に活用するためには、内容項目そのものに対する深い理解が求められますし、決して簡単で楽な方法ではありませんが、自分自身の教科書教材活用の幅が広がることにつながるでしょう。

自明とされることを問い続ける (自戒を込めて)

問い続けることなしに走り続けることがないように。そしてそんな自らを戒めるために......


教材を作った人間が、教材のなかで「人の生き方」として提示しているものが、本当に「人の生き方」といえるものなのかと自問したことはあるでしょうか?

 

もう10年以上前で道徳の教科化以前の話です。道徳教育の世界において重鎮の一人とされる著名な方が、講演のなかで語った言葉に衝撃を受けた経験があります。

 

「道徳の資料においては、事実がどうとか、科学的にどうとかはどうでもいいのです。資料の登場人物の姿にひとつの道徳的価値が明確に示されていること。そして、その道徳的価値に疑義を挟む余地がないこと。これが道徳の名資料であるかどうかの条件なのです。」

 

今でも、道徳教育界に大きな影響力をもつ方の発言です。なるほど『手品師』であれ『雨のバス停留所』であれ、この言葉に沿った作りになっています。読み物資料と呼ばれる道徳の時間の学習で用いられてきた文章は、概ねこの条件を満たすように作られてきました。いや、道徳科に移行して、教科書教材となった今なお、この条件は教材作成者に対する無意識の縛りとして存在するようにすら思えます。

 

こうした条件のもとに作られた読み物教材と、その登場人物が示す有り様を、本当に「人の生き方」と考えてよいのでしょうか?


疑義を挟むことが許されない道徳的価値は、「人の生き方」の一側面を提示しただけに過ぎないのではないでしょうか?


その一側面をもって語るだけで、「人の生き方」を追究したと本当にいえるのでしょうか?

 

領域としての「道徳の時間」であれば、あるいはそれでよかったのかもしれません。しかし、「特別の」であったとしても「教科」として存立する道徳科です。教科としての道徳を志向するのであれば、情意的側面を殊更に強調し、本来なら基盤として存在するはずの知識や理解を軽んずることには、私は同意できません。それは、「道徳的価値の情緒的理解」であり、「人の生き方」への考えを深めることにはなり得ていないと考えるからです。

 

今、私たちが様々な文脈のなかで「人の生き方」として語っている内容は、本当に「人の生き方」なのでしょうか?

道徳科での「ちょっと気になるあの子」の学びの具体


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道徳科に限らない話ですが、私たち教師は「ちょっと気になるあの子」と、どのように授業を紡ぐかに心を砕きます。この前提を理想論にしてしまわないために、授業そのものを機能させる策を考えるわけです。具体的にどう紡いでいるかについて、数年前の記録を引っ張り出してみました。

「世界最弱のヒーロー,アンパンマン」(文溪堂5年生)を使って「公正公平・正義」について考えたときの記録です。
子どもたちの「正義」についてのイメージと認識をもとに,「正義を可能にするものは何か」について考えを深めることで内容項目についての理解を深める授業を構想して実践しました。

(以下、1人の児童の動きと思考に着目した記録)

T:「正義」と聞いて、どんなイメージが連想される?
G:(なんとなくぼっとしつつ、副読本をパラパラめくる)

T:みんなが考えた「正義ってこういうことかな」っていう4つのなかで、自分はどのイメージに近い?
G:わかりません!
T:う〜ん、Gくんが正義って感じるのがこの中のどれに近いかってことなんだけど、今の自分の考えに一番近いのを選んでみてよ(ひとつずつ読んで確認)
G:1番かなぁ。でも、なんか、わかりにくい。
T:うん、それは素直なとこだろうねぇ。そこで今日は、「正義って何だろう。正義について考えよう」ってテーマで話をしてみようか。じゃあ、教材を読みます。
G:(教材文をボーッと眺めながら聞く)

T:なぜ、初代アンパンマンは、誰からも尊敬されないのに、あんパンを配り続けたの?
G:(教材を眺めているものの、心ここに在らず...な雰囲気)

T:ところで、アンパンマンは、お腹がすいた子がいたらどうする?
G:(さっと顔をあげて)顔をちぎってあげる!

T:そんなアンパンマンのことを、やなせさんは、「世界最弱のヒーロー」って呼んでいるんだよね。
G:はあっ?どういうこと?意味わからん。(内心、「その反応を待ってたよ。今日もいい仕事をするねぇ」と思いながらも、表情には出さず...)

T:では、みんなGくんの疑問から考えを深めてみようか。なぜ、アンパンマンは「世界最弱」なのに「ヒーロー」なんだろうね。自分なりの思いをひとつ書いて、そのあと友達と考えを交流して学び合ってごらん。さあ、始めよう。

G:(う〜んと唸りながらも)あっ、わかった‼ 
G:(「バイキンマンは強いし、それに比べてアンパンマンは弱いから、本当は闘いたくない。けど、放っておくこともできない」と書いて、友達のところへ向かう)

G:(何人かと話した後、私のところへ来る)先生、わかったで!(自分の考えを話す)
T:なるほどね。放っておかないんだね。それがGくんの「正義」が現れた姿なのね。でも、簡単にはできないでしょ?
G:うん、だから、勇気がないとできん。
T:おーっ、Gくんの「正義」には勇気が大切なんだね。
G:そう、絶対に勇気がいるもん!(満足そうに席に戻る)

(意見交流後)
T:さあ、なぜ「世界最弱」なのに「ヒーロー」ってどういうことか、自分なりに納得できた?
G:(挙手して4番目に発言)「正義」って、困っている人を放っておけないってこと。自分でも、他の人でも。でも、そうするためには、絶対に勇気がいる。勇気をもってできるから、弱くても正義なんだと思う。

T:「正義」って何か?について考えるなかで、正義についてや、正義のために大切なことが見えてきたみたいだね。では、今日の学習で考えたことを書いて、まとめにしよう。

G:「自分が放っておけないって思ったことをするのが正義。そのためには勇気がいるけど、立ち向かっていけると思う」

 

「ちょっと気になるあの子」こそ、授業の中核に据えるに値する問いをもっている可能性があることを、私たち教師は心に留めておきたいものです。

人物教材の授業をどう創る? ~自作教材『薄命の天才 村山聖』を例に~

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上の写真は、自作教材「薄命の天才 村山聖」の今年の授業での板書です。前回は人物を取り上げた自作教材についての私の考えを示しました。今回は、授業の概要について紹介することで、具体的な授業のイメージをもっていただければと思います。途中で、授業で用いたプレゼンテーションのシートが出てきますが、授業で用いたものの一部だということをご承知ください。

 

 本時については、いわゆる「導入」は設定していません。いきなり教材に入ります。その1枚目の画像が下の左側のものです。

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この1枚目から数枚のプレゼンシートで村山聖という人物を概観できるような内容を提示します。「名人をめざしていたこと」、「東の羽生、西の村山と呼ばれたほどの実力があったこと」、「29才でガンのため、名人に挑戦することなく亡くなったこと」などです。これは、「児童の人物についての知識をある程度揃える」ことをねらっていますので、「教材の世界への導入と言えば、そう言えなくもない」というふうには思います。

 

村山聖の生涯を概観したうえで、子どもたちに最初の問いを投げかけます。それが、右上のプレゼンシートで示した、「村山聖は、自分の人生に後悔はなかったのだろうか?」という問いです。本時では、この問いを3度投げかけます。この「同じ問いを続ける」という授業構成は、私が発案したものではなく、堀裕嗣先生がセミナーで提案された、自作教材と模擬授業のなかで学んだものです。(詳しくは、堀裕嗣著『道徳授業で「深い学び」を創る』をご参照ください)

 

村山聖の生涯をざっと概観しただけの段階での問いで、子どもたちの意見は「後悔があった」と「後悔がなかった」の意見が、およそ半数ずつとなりました。「名人のタイトルを取るどころか挑戦すらできなかったこと」、「実力は十分あり、あと一歩だったこと」などが「後悔があった」とする子どもたちの考えでした。一方、「惜しい気はするが自分の行動に悔いはない」、「好きだった将棋で十分に強さは示した」などが、「後悔はなかった」とする子どもたちの考えでした。

 

 村山聖の生涯の概観と最初の問いについての子どもたちの考えを受け、彼の生い立ちからガンによるA級降格までを提示しました。そのうえで、はじめと同じ問いを重ねました。

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 2度目の問いでは、自分の考えをワークシートに書いたうえで、他の子どもたちと意見を自由交流しました。選んだ立場が同じでも異なっていても、その根底にある思いや考えは多様である場合が多いのが人物教材の特徴のひとつです。なるべく多くの考えにふれ、それぞれのよさを認め合ってほしいと考えて、自由交流の場を入れています。

 2度目の問いに対し、「後悔はなかった」と考えた子どもが若干増えました。彼の生い立ちやプロ棋士になるまでの姿を知るなかで、名人戦という自分のこだわりのある場での勝負ができなかったことへの悔いの一方で、病と闘いながら強くなり、あと一歩まで勝ち上がることができたことに対する悔いはなかったのではないかと、子どもたちは考えていました。

 

 そして、ガンの手術を受け、看護師付き添いで順位戦に臨み、A級復帰を果たした姿と、名人挑戦まであと一歩のところでガンが再発してしまったこと、「ぼくには今しかないんです」という彼の言葉を子どもたちに提示したうえで、もう一度同じ問いを重ねました。

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 ここでも、自分の立場と考えを明らかにしたうえで、子どもたち同士の意見の自由交流を行いました。

 3度目の問いに対し、「あと少しで名人までたどり着けたはずだった」という思いは抱きながらも、将棋も病気も最後まで戦い抜いた姿を「村山聖ならではの生き方だった」と子どもたちは考えました。そして、彼の命の火を最後まで灯し続けた源泉について、「夢」、「悲しみ」「人生」、「本気」、「覚悟」、「幸せ」といった視点から、子どもたちそれぞれの考えを語りました。

そして最後に、下のプレゼンシートを提示し、子どもたちそれぞれの思いをワークシートに書いて授業を終えました。

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人物教材での授業の場合、「人に生き方に学ぶ」という部分を大切にしたいと考えます。それは、必ずしも「教材の人物を自分に引き付けて考える」ことを意味しません。自分の生活や経験に返すことに授業者がとらわれると、人物教材を扱う意義がなくなるとすら思います。

教材で扱う人物の生き方を、児童の実際の生活経験のレベルで引き付けさせたところで、「そんなこと私にはできない」で終わります。時間も空間も重なることのないであろう「教材で取り上げた人物の生き方」を子どもたちの世界に落とし込んで考えさせることは容易ではありませんし、教材の人物の生き方を変に矮小化したり、曲解したりすることの方に大きな懸念を抱きます。ですから、私は子どもたちの現実に引き付けることに必要性を感じません。それよりももっと大きく人物教材をとらえ、「出会った人物の生き方からに自分たちが学ぶことがあるとすれば、それは何だろう」ということに思いを巡らせたいと考えます。

 

「授業実践にかけるのが難しい」と言われがちな人物教材ですが、教材の構成とそれを機能させる問い、そして根底に流れる「人の生き方に学ぶ」というスタンスがあれば、むしろ子どもにとっても教師にとっても興味深い授業になるでしょう。

人物を取り上げた自作教材についての考え~『薄命の天才 村山聖』を例に~

 この教材を用いた道徳科の授業は、昨年(6年生)と今年(4年生)の3月に実施しました。この教材は、私が作成・編集した「自作教材」ではありますが、元になった教科書教材があります。ただ、その教材にどうしても納得のいかない部分があったため、自作教材として手掛けることにしました。そこには、私が人物教材で大切にしたいと考えるひとつの大切なポイントがあったからです。

 

 もとになった教科書教材は、確かに村山聖を取り上げてはいるのですが、教材自体の主人公は村山聖ではなく、村山聖の話を聞いた(架空の人物である)ひとりの少年が主人公になっています。

 

 人物教材についての話をするなかで、「人物教材の主人公は、その教材の対象学年の子どもであることが望ましい。だから人物を通して何かを学んだ子どもの姿を教材に描くべきである」といった論と出合うことがあります。「教材の人物が成人であると、児童の役割取得が難しい」というのがその根拠のようです。

 

 私はこの論には賛同しかねます。もし仮に、この「教材の人物が成人であると、児童の役割取得が難しい」という論に妥当性があるのであれば、「手品師」や「ロレンゾの友達」など、これまで数多く用いられてきた教材も同様であり、「人物教材」に限った課題とはいえないでしょう。役割取得は、「成人⇔児童」の対比の問題ではなく、時代背景や環境など他の諸要因が複雑に絡み合って織りなされる問題であり、教材の内包する課題というよりは、授業実践のためにレディネスとして考慮しておくべき道徳的知識の質と量に関する課題であるといえるでしょう。

 

 また、人物教材の主人公を架空の第三者にすることは、子どもたちが授業の中で、主人公に自我関与して考え、議論する際にも問題が出てくると考えます。現実の世界に生きた人物を教材として取り上げるのは、作者の意図によって考え出された抽象的な架空の物語ではなく、具体性をもった人物の生き方に学ぶためです。もしも主人公が架空の第三者と設定された教材であれば、学習者は一義的にはその主人公に自我関与を図り、取り上げられた人物への自我関与は副次的なものとなります。そして、主人公として設定された架空の第三者の在り様を描くのは教材作成者であることを考えると、教材作成者が恣意的に方向づけた道徳的価値へ、主人公の姿を通して誘引するものとなることが危惧されます。

 

 このような理由から、私は架空の第三者を主人公とした教科書教材ではなく、村山聖を主人公にした人物教材として構成しなおしました。中心となる内容項目は、高学年は「よりよく生きる喜び」、中学年では「生命の尊重」を想定しています。

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この授業の概要についてはまた後日とする予定です。

「若手教師が陥りやすい」道徳科授業の落とし穴

・ 教材だけに目が行く
 本時の授業で扱う教材文だけに目を奪われ、学習指導要領に示されている内容項目を読まないで授業に向かおうとするパターンです、本時の授業の基盤となるねらいを明確にするためには、学習指導要領解説編に示された内容項目を確認していくことは、授業を構想するためのスタートラインだと考えます。


・ 指導案を軽視しがち
 指導案は、教材研究のあゆみそのものです。「教材」、「児童・生徒」、「教師」の3つの関わりで授業は構想されますが、教師が教材をどう価値づけ、児童・生徒の実態からどのような課題を設定し、どう機能的に授業を構成するかを明確にして授業に臨みたいものです。そして、これらを表現したものが学習指導案だといえるでしょう。授業における羅針盤の役割を果たす指導案を書くことは、授業という教育活動をマネジメントする教師の力量の向上に寄与することは間違いありません。「指導案が無くても授業はできる」という教員には2タイプあると考えます。指導案を徹底的に書く経験を経て、指導案が必要ないほどに機能的な授業が構想できるようになった人か、指導案に表現できるほどのレベルに達していない授業しかできない人かのいずれかだと思います。(多くは後者なのですが……)


・ 発問が多い
 若いころ、「授業で教師であるアンタがしゃべりすぎだ」と幾度となく指導を受けた経験があります。教師の発問に対して、子どもたちから的確な反応が得られず、焦って追加の補助発問を乱発し、最後は自分の考えを伝えるだけという悪循環に陥った授業が多かったのでしょう。発問が多いのは、その発問が機能しないからであり、発問自体が的確性に欠けるからです。スモールステップで発問を重ねていく授業は、どうしても「教師対子ども」の授業になりがちで、「教授者⇔学習者」の固定化された関係性のなかだけで進むことになります。低学年の授業では、意図的にそういった展開を仕組むこともありますが、中心となる問いをベースにしてなるべく発問は精選したいと考えます。


・ 設定した発問や指導過程へのこだわりが過ぎる
 教材研究を深め、児童・生徒の実態もふまえて学習を構想したとき、その準備が念入りに行われたものであればあるほど、教師のこだわりが強くなります。「この授業で必ずここまで考えさせる。そのための教材や活動も準備した」となると、教師自身が授業として描いたストーリーの上に子どもたちを乗せることに執着してしまいがちです。しかし私自身の経験から言えば、少なくとも道徳科では、そういった授業でうまくいったためしがありません。それは、教師が描いた授業像に自縄自縛の状態に陥り、子どもたちの声に耳を傾けられなくなっていくからだと考えます。子どもたちとともにひとつのテーマを追求し、互いの考えを「紡ぐ」営みを道徳科の学習の基盤とするならば、「準備は精緻に、授業はおおらかに」という教師の構えが肝要でしょう。


・ 羅列的な板書になる
 道徳科の授業における板書は、子どもの発言を一言一句全て書き上げる必要はありません。板書は、子どもたちの思考をうながしたり、自分の考えの現在地を確認したりするための学習ツールのひとつとして機能させることが重要だと考えます。ですから、子どもたちの発言や考えのキーワードを端的に書き記し、ポイントをわかりやすくまとめることが効果的なのではないでしょうか。

「登場人物への自我関与が中心の学習」に思うこと

 文部科学省が取りまとめた、「「特別の教科 道徳」の指導法と評価について(報告)」の中で、考え、議論する道徳の推進に向けて、「問題解決的な学習」や「体験的な学習」と並んで提示されているのが、「登場人物への自我関与が中心の学習」です。


 この指導法、気を付けないと、従来の「心情の読み取りに終始する学習」と何も変わらないといった状況を生んでしまうことになります。ポイントは、パターン例として提示されている「教材を読んで登場人物の判断や心情を類推することを通して、道徳的価値を自分との関わりで考える」という文章をどう考えるかということです。

 

 自分の生活経験と重ねると言いながら、「自分はこう思うから、登場人物もきっと同じだろう」という認識しかもてないようであれば、それは不十分な自我関与だと言えるでしょう。
 例えば、登場人物の生き方を深く知ることで、自分の経験の外にある事柄であっても、「自分とは全く違う考えだが、この人ならきっとこう考えるだろう」といった思考や判断も、自我関与が中心の学習では必要になると考えます。
さらに、学級という多様な経験をもつ集団での学びを通して、自分とは異なる経験をもつ他者と、「なるほど」と頷いたり、「いや、そうだろか」と疑問を抱いたりしながら、互いの共通了解を見出すことができるような意見交流が求められるでしょう。

 

(少なくとも、小学校高学年以上では、)登場人物に自己を投影し、自らの写し鏡として登場人物の生き方を語るだけでは、行き過ぎた自己の考えへの固執と他者理解の欠如に終始する可能性が高く、道徳性の成長の観点からすると、物足りない学習となってしまいます。登場人物の状況や取り巻く環境などを整理して、自分のなかに落とし込んだうえで、登場人物と自分とを重ねたとき、「なぜその判断や行動がとれるのか?」について、たとえ自分の経験の外にあるような出来事であっても、考えを及ぼそうとすることこそが、「登場人物への自我関与」だと考えます。

 

 この学習で大切にしたいのは、登場人物の生き方を具体的な事実(道徳的判断や心情に至るために必要な客観的情報としての知識)に基づいて理解し、生き方を支えた思いについて(道徳的諸価値についての知識に基づいて)多様な側面から考えることと、自分と同じように登場人物に自己を投影して語る他者の意見を受け止める態度、その実現のための対話的な活動です。これらに留意して学習を構想すれば、子どもたちそれぞれの自我関与の総和としての内容項目の深い理解と、自らの生き方についての考えを深める道徳科の学習が実現できます。