人物教材の授業をどう創る? ~自作教材『薄命の天才 村山聖』を例に~

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上の写真は、自作教材「薄命の天才 村山聖」の今年の授業での板書です。前回は人物を取り上げた自作教材についての私の考えを示しました。今回は、授業の概要について紹介することで、具体的な授業のイメージをもっていただければと思います。途中で、授業で用いたプレゼンテーションのシートが出てきますが、授業で用いたものの一部だということをご承知ください。

 

 本時については、いわゆる「導入」は設定していません。いきなり教材に入ります。その1枚目の画像が下の左側のものです。

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この1枚目から数枚のプレゼンシートで村山聖という人物を概観できるような内容を提示します。「名人をめざしていたこと」、「東の羽生、西の村山と呼ばれたほどの実力があったこと」、「29才でガンのため、名人に挑戦することなく亡くなったこと」などです。これは、「児童の人物についての知識をある程度揃える」ことをねらっていますので、「教材の世界への導入と言えば、そう言えなくもない」というふうには思います。

 

村山聖の生涯を概観したうえで、子どもたちに最初の問いを投げかけます。それが、右上のプレゼンシートで示した、「村山聖は、自分の人生に後悔はなかったのだろうか?」という問いです。本時では、この問いを3度投げかけます。この「同じ問いを続ける」という授業構成は、私が発案したものではなく、堀裕嗣先生がセミナーで提案された、自作教材と模擬授業のなかで学んだものです。(詳しくは、堀裕嗣著『道徳授業で「深い学び」を創る』をご参照ください)

 

村山聖の生涯をざっと概観しただけの段階での問いで、子どもたちの意見は「後悔があった」と「後悔がなかった」の意見が、およそ半数ずつとなりました。「名人のタイトルを取るどころか挑戦すらできなかったこと」、「実力は十分あり、あと一歩だったこと」などが「後悔があった」とする子どもたちの考えでした。一方、「惜しい気はするが自分の行動に悔いはない」、「好きだった将棋で十分に強さは示した」などが、「後悔はなかった」とする子どもたちの考えでした。

 

 村山聖の生涯の概観と最初の問いについての子どもたちの考えを受け、彼の生い立ちからガンによるA級降格までを提示しました。そのうえで、はじめと同じ問いを重ねました。

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 2度目の問いでは、自分の考えをワークシートに書いたうえで、他の子どもたちと意見を自由交流しました。選んだ立場が同じでも異なっていても、その根底にある思いや考えは多様である場合が多いのが人物教材の特徴のひとつです。なるべく多くの考えにふれ、それぞれのよさを認め合ってほしいと考えて、自由交流の場を入れています。

 2度目の問いに対し、「後悔はなかった」と考えた子どもが若干増えました。彼の生い立ちやプロ棋士になるまでの姿を知るなかで、名人戦という自分のこだわりのある場での勝負ができなかったことへの悔いの一方で、病と闘いながら強くなり、あと一歩まで勝ち上がることができたことに対する悔いはなかったのではないかと、子どもたちは考えていました。

 

 そして、ガンの手術を受け、看護師付き添いで順位戦に臨み、A級復帰を果たした姿と、名人挑戦まであと一歩のところでガンが再発してしまったこと、「ぼくには今しかないんです」という彼の言葉を子どもたちに提示したうえで、もう一度同じ問いを重ねました。

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 ここでも、自分の立場と考えを明らかにしたうえで、子どもたち同士の意見の自由交流を行いました。

 3度目の問いに対し、「あと少しで名人までたどり着けたはずだった」という思いは抱きながらも、将棋も病気も最後まで戦い抜いた姿を「村山聖ならではの生き方だった」と子どもたちは考えました。そして、彼の命の火を最後まで灯し続けた源泉について、「夢」、「悲しみ」「人生」、「本気」、「覚悟」、「幸せ」といった視点から、子どもたちそれぞれの考えを語りました。

そして最後に、下のプレゼンシートを提示し、子どもたちそれぞれの思いをワークシートに書いて授業を終えました。

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人物教材での授業の場合、「人に生き方に学ぶ」という部分を大切にしたいと考えます。それは、必ずしも「教材の人物を自分に引き付けて考える」ことを意味しません。自分の生活や経験に返すことに授業者がとらわれると、人物教材を扱う意義がなくなるとすら思います。

教材で扱う人物の生き方を、児童の実際の生活経験のレベルで引き付けさせたところで、「そんなこと私にはできない」で終わります。時間も空間も重なることのないであろう「教材で取り上げた人物の生き方」を子どもたちの世界に落とし込んで考えさせることは容易ではありませんし、教材の人物の生き方を変に矮小化したり、曲解したりすることの方に大きな懸念を抱きます。ですから、私は子どもたちの現実に引き付けることに必要性を感じません。それよりももっと大きく人物教材をとらえ、「出会った人物の生き方からに自分たちが学ぶことがあるとすれば、それは何だろう」ということに思いを巡らせたいと考えます。

 

「授業実践にかけるのが難しい」と言われがちな人物教材ですが、教材の構成とそれを機能させる問い、そして根底に流れる「人の生き方に学ぶ」というスタンスがあれば、むしろ子どもにとっても教師にとっても興味深い授業になるでしょう。